8月の終わり、英霊たちに想いを致す

8月も間もなく終わります。
勝手なもので、日本で大東亜戦争が話題に上るのは毎年8月だけ。
私が子どもの頃は、12月8日の開戦記念日前後にも
「トラ! トラ! トラ!」なんて映画をテレビでやっていました。
最近の12月はクリスマス一色。
日本には百万人もクリスチャンがいないのに、大騒ぎです。

そろそろ誰も戦争の話をしなくなるので、もう一席。
まず、用語解説から。
私は69年前に日本が負けたあの戦争を大東亜戦争と呼びます。
日本が負けるまでは、それが国内の正式名称でした。
近頃使われる太平洋戦争という言葉は、
敗戦後に日本を占領支配したアメリカのGHQが押し付けたもの。
アメリカにとっては、あの戦争のエリアが今の東南アジアも含む
東アジア全域を指す「大東亜」よりも、
自分たちが主に戦った「太平洋」に限定したかったのです。

さらに言えば、日本は戦争の大義として、欧米に植民地支配されている
アジアの解放を唱えていました。これ、誠に正論。
だから、アメリカにとっては困るのです。
何としても、あの戦争は「日本が悪、アメリカが善」でなければなりません。
そのため、GHQは占領政策の一環として
あの大きな戦争の名称までも変えてしまったのです。
私は彼らの思惑に従うつもりはないので、大東亜戦争と呼びます。

何回かここで書きましたが、1941年当時、アメリカは積極的に
日本と戦いたかったわけではありません。
当時のアメリカ大統領・ルーズベルトの本音は、
ヒットラーに息の根を止めかけられている
チャーチル首相のイギリスを助けに行きたかったのです。
実際、国際法に違反して大西洋上でイギリスの輸送船団に
アメリカ海軍の駆逐艦を護衛に付けていました。

でも、ルーズベルトは4回目の大統領選挙に当選する際、
すでにヨーロッパでは第二次世界大戦が始まっていました。
ヒットラーの機甲師団はヨーロッパ各地を蹂躙していたのです。
しかし、厭戦気分の強いアメリカでは参戦の気運が盛り上がりません。
ルーズベルトも選挙運動の中で、
「あなたがたの息子は絶対に戦場にやらない」を公約にしました。
だから、自ら進んでヨーロッパでの戦争に参戦できません。
そこで、日本に戦争を仕掛けさせることを考えます。

まず、支那事変を口実に、経済制裁を加えます。
さらに、仏印進駐を理由にハルノートを突きつけます。
東京裁判で、インドのパル判事が
「こんなものを突きつけられたら、ルクセンブルグのような小国でもアメリカと戦争するだろう」と言われるほど、無礼なものです。
それで、日本は已むに已まれずに真珠湾攻撃へ。

その報を聞いた時、チャーチルは小躍りして喜びます。
「これで戦争に勝った」(W・チャーチル著「第二次世界大戦」)
その数日後、マレー沖で最新鋭巡洋艦レパルスと、
イギリスの戦艦大和ともいうべきプリンス・オブ・ウエールズが
日本海軍機の攻撃で撃沈されたという知らせを聞いた時、
「生涯にこれほどの衝撃を受けたことはない」(同)と、うなだれるのです。

はっきりいって、チャーチルは日本軍を全然バカにしていたはず。
まさか、短期間でシンガポールまで落されるとは思わなかったでしょう。
そして、戦争が終わってみれば「イギリスの宝石」とよばれた
インドを含めて、アジアのすべての植民地を失うなんて、
想像もできなかったと思います。つまりは大誤算。

イギリスは東南アジアで日本と戦ったことによって、
日の沈むことのない「大英帝国」から、
ただの「イギリス王国」になり下がったのです。
もちろん、アメリカを引っ張り込まないと
戦争には勝てなかったでしょうから、
日本を追い込んだのは「仕方ない」とも解釈できます。
しかし、もっといい方法があったかもしれません。

日本は、大東亜戦争に敗れたとはいえ、戦争の大義として掲げた
「大東亜の欧米植民地からの解放」を結果として実現させました。
だから、今でも東南アジアの国はほとんどが親日国です。
戦後しばらく対日感情が悪かったフィリピンでさえ、
ここ20年くらいはとても親日的だと思います。
どこかの恨み深い国と違って、暗い戦争の記憶を
アッケラカーと忘れてくれたようです。

さて、日本がアメリカを攻撃したことで、ドイツがアメリカに宣戦布告。
これは、日独伊三国軍事同盟で決まっていたことです。
ヒットラーはスターリンと違って日本との条約をキチンと守りました。
これで、ルーズベルトは堂々とヨーロッパの戦いに参加できたのです。
結果、連合国は勝利を収めて、戦後の処理にあたりました。

彼らにとって何よりの誤算は、対日戦でした。
これほど手こずるとはルーズベルトもチャーチルも考えませんでした。
日本軍は当初彼らが考えた以上に力強く戦ったのです。
そして、最後の最後には「特攻」という狂気の戦法まで使いました。
西洋の軍人にとって「死を怖れない」ことはあっても
「死を前提とする」する作戦など、あり得ません。
どんな困難な作戦でも「生きて帰る」が前提なのです。
だからこそ、彼らは特攻に戦慄しました。

沖縄沖の洋上で毎日のように特攻機の攻撃を受けた
アメリカ軍の兵士の多くは、精神に狂乱をきたしたといいます。
「悪魔のような連中と戦っている」
なぜなら、特攻は彼らの価値観ではまったく理解できないからです。

さて、あの戦争のもたらした惨劇にも目を向けましょう。
大まかに、あの戦争で死んだ日本人は約300万人です。
アメリカ人は約60万人だそうなので、その5分の1ですね。
また、アメリカはヨーロッパでも戦っているので、
実質日本人10人死ぬことで、アメリカ人を1人が死んだのでしょうか。

しかし、日本人の死者300万人のうち、200万人は餓死だと言われています。
敵の弾に当たって死んだのは100万人だと考えれば、
まあ、よく戦ったのではないでしょうか。
日本が戦った相手はアメリカだけでなく、国民党軍や英印軍、
さらに戦争末期にはソ連軍も含まれます。

ついでに言うなら、今の支那大陸を支配している
中国共産党の軍隊と日本軍は、ほとんど戦っていません。
ただ1回だけ、1940年8月-12月に「百団大戦」という戦闘がありました。
八路軍40万人が日本軍2万人に襲いかかった戦い。
日本軍の死亡は200余。八路軍側の戦死者約2万数千。
まあ、「一蹴した」といってもいいスコアですね。
中国共産党はまるで第二次世界大戦の勝者のように振る舞っていますが、
あれは連中お得意のプロパガンダでしかありません。

さて、アメリカ人の死亡者60万人のうち、餓死はごく少数かと思われます。
ほとんどが、戦闘での死亡。わずかに病死・事故死もあるでしょう。
つまり、約60万人の大半は、彼らが戦った
ドイツ軍か日本軍の「弾に当たって」死んだのです。
艦船、航空機、武器弾薬の物量が数倍から数十倍のアメリカ軍を相手に、
日本軍もドイツ軍もかなりの力闘を見せたのです。
これは、ハリウッドで作られる戦争映画を見ているだけでは分かりません。

ところで、私は今50代ですが、親は戦争経験者です。
つまり、餓えたことのある世代。
父親はシンガポールで敗戦後イギリス軍に半年間抑留されました。
一日に半合の米しか支給されなかったと聞いています。
イギリス軍は、日本軍への報復感情を持っていたからだそうです。

私の子ども時代は、昭和40年代。まだ、戦争の匂いが少し残っていました。
お祭りで屋台が出ると、必ず白い服を着て軍帽を被った傷痍軍人が、
アコーディオンで悲しい音楽を流しながら、哀れみを乞うていました。
銭湯へ行くと、オジサンたちが「これは戦争で受けた傷や」
というのを見せてくれました。足を引きずっている人もいましたね。

私は、餓えたことがありません。
むしろ、小さい時から親に「たくさん食べろ」と半ば強制されました。
まるで、食べないことが悪いことのような意識が生まれましたね。
親にとっては「腹いっぱい食べられることが幸せなんだ」という
餓えた人間にしかわからない価値観があったのでしょう。

親の時代、日本は餓死者が出るほどに餓えていたにもかかわらず、
今はそんなことをコロリと忘れて毎日飽食しています。
私の叔父はあの戦争で兵隊にとられ、ニューギニアで戦病死しました。
多分、マラリアに犯され、食に餓え、やせ細って死んでいったのでしょう。
靖国神社に参る時は、いつもその会ったこともない叔父のことを考えます。

あの、尊い300万人の犠牲、そのうち200万人は
飢えと渇きに苦しみぬいて亡くなった・・・・
があってこそ、今の日本が繁栄しているのだと思っています。
そのことを、今の日本人はもっと知るべきです。
少なくとも、戦後にGHQが勝手に組み立てた
「好戦的な日本が戦争を仕掛けた」
「日本の軍隊は、アジア各地で蛮行を働いた」
「日本はアメリカにカンタンに負けてしまった」
といった、一方的な見方は改めるべきです。
それは尊い犠牲となった300万人の英霊に対して、
大変申し訳ないことです。

レポートの更新情報です。
「千代田区」と「杉並区」を最新情報化。
ともに、この3か月間で新規の売り出し物件がありません。
ただ、物件選びはその分難しくなっています。

千代田区・総集編
価格 3,190

■Brillia(ブリリア)千代田左衛門橋、■GREEN PARK 千代田司町、■CONOE(コノエ)秋葉原 万世橋、■ザ・パークハウス アーバンス 千代田御茶ノ水、■GREEN PARK千代田大手町、■クラッシィハウス神田美土代町、■ブランズ九段北、■五番町マンション、■プレミスト麹町、以上9物件の資産価値と商品バランスを詳細に分析・解説

杉並区・総集編
価格 3,980

パークホームズ杉並和泉ザレジデンス、■パークホームズ浜田山四丁目、■パークホームズ西永福、■Brillia(ブリリア)久我山、■ブランズ富士見ヶ丘、■グローリオ永福町和泉、■ローレルコート笹塚、■シティテラス西荻窪、■プレサンスロジェ 荻窪桃井 THE PARK、■プレシス杉並和田グランテラス、■アイム・シティ荻窪、■パレステージ阿佐ヶ谷、以上12物件の資産価値と商品バランスを詳細に分析・解説

 

今、最も有利な海岸不動産を
バリ島不動産投資セミナー

開催日時:2014年9月16日(火) 午後6時30分より
開催場所:ビジネストランスファー会議室(JR「東京」駅から徒歩1分)
(東京都中央区八重洲1-8-17 新槇町ビル6階)
参加費用:お一人様 1,000円(税込) 定員10名 定員になり次第締切

お申込みはコチラから

ブログよりも過激な発言をお求めの場合は
私のツイッターをご覧ください。
twitter.com/SAKAKIATS

夕刊フジの公式サイト zakzak
に榊淳司の連載コーナーが設置されています。


2014/8/28 2:20 Comments (4)

4 Comments

まろたんさん、こんにちは。

確かに、今回は石破君の負けですね。
思ったよりも情けないオッサンだったりして。

世界に大恥さらした理研なんなて、解散だ!
と、私は叫びたいところです(笑)。
笹井先生は何を墓場まで持って行ったのでしょうね?
それよりも、理研をクビになった後の
あの30おばさんの身の振り方が気になります。
それとも、しぶとく残れれば拍手喝采。
クビにできない理研は世間から冷たい目で見られますから。

まあ、そんな野次馬話よりも、地方ですね。
ブログにも書きましたが、「絶望未来」です。
石破君なんかに何も期待できません。

また、地方のご見分をお聞かせください。

ごきげんよう。 榊淳司

2014/08/30 15:23 | by Sakaki Atsushi

榊さま。

上州は新田郡三日月村・・・と。
往年の人気ドラマ・木枯らし紋次郎の出だしのナレーション。
榊さまも、ご存知のことかと。

確かそのころでしたが、
私も上州の山奥にある村に数日遊び、一軒しかない宿に投宿しました。
オヤジと家族だけで営んでいるような小さな宿でした。

問わず語りに、オヤジが言いました。
「ここは鉄砲打ちしか来ない」と。
言うまでもなく、鉄砲打ちとは猟師のことですが、
古臭い物言いに笑ったものでした。

上州への小旅行。満喫されたようで。
上州に限らずこの日本の地方の町の落日は、
現地に足を踏み入れると否定しようがありませんね。
メディアで報道される統計の「数字」以上の「実感」です。

ミもフタもない言い方ですが、もはや手遅れ、ですわ。

さて、
石場茂はオトコを下げましたね。
本意としてクーデターの意図はなかったでしょうが、
周囲の多くの人びとにクーと見做され非難され、挙げ句、
無残にも、彼のクーは失敗に終わった。

安倍の盟友・麻生は「外せ」と進言したとか。
「禅譲を約束された」って。
あの安倍が?あり得ないでしょう。

理研は総崩れ。
金バッチのハゲも見苦しい。

笹井が自死して、ホッと胸をなで下ろしたメンツがいたとか。
ま、膨大な汚れたカネ・利権が渦巻いていたようですから、
笹井にベラベラしゃべられたら・・・というメンツですね。

あの厚化粧の三〇オンナは、持ち前のネバリ腰。
爬虫類みたいなツラをしてますから、手ごわいですわ。
ウラで脅しているのでは?
ぶちまけるど!って。

キンタマ握られたら、オトコも死に体ですから。

近日雑感でした。
今年の秋は、精力的に地方を歩くつもりですわ。

ごきげんよう。

2014/08/30 11:06 | by まろたん

まろたんさん、こんにちは。

さっき、上州のある温泉から帰ってきました。
いやはや、その寂れようにビックリ。
ホテルの人の表情も、なんとなく活気がありませんでした。
でも、いいお湯においしい料理を堪能。
しっかり朝湯も楽しんできました。

しかし、小さな温泉街は完全にシャッター化。
10軒に1軒くらいしかやっていませんでした。
人通りもまばら。
日本の中小温泉地は、あと10年で7割がた消えるのではないかと思うほど。
この国の地方は、間違いなく衰退していますね。
東京にいると、そのことをほとんど感じませんが。

昭和の戦争は遠くなりました。
でも、日本は衰退と戦わなけらばなりません。
こんども負けそうですね。

また、コメントをお待ちしています。ごきんげんよう。

榊淳司

2014/08/29 17:40 | by Sakaki Atsushi

榊さま。

いつだったか、おぼろでありますが、
遠い記憶としての風景の残像が。
たしか昭和三〇年前後、私が就学前後のころだったような。

町かどの路傍に佇んでいた、白装束の男の姿。
松葉づえにもたれていたような。
なぜか、重たそうな風琴を抱いていましたね。

どんな顔だったのか、思い出せませんな。
どういう事情の人たちだったのか。
風評、風のうわさ程度しか知りません。

昭和の群像は、薄明かりの中でうら哀しい。
祈るしかありませんな。

ものみな思い出に変わる。
そして、成仏する。
例外なく。

ごきげんよう。

2014/08/29 13:09 | by まろたん

RSS feed for comments on this post.


Leave a comment

※こちらへ書き込みいただいたコメントは、承認後全て表示されます。
マンション購入に関する個別相談等こちらへ表示させたくない場合は、
専用フォームからお願いいたします。