「豊洲」は市場に「埋没」、「有明」は市場から「浮遊」

おおよそ400と20年ほど昔の、ある夏の日の夕刻。
ふたりのオッサンが小田原の城が見える丘の上で
仲良く「連れション」をしておりました。

「おみゃーさまにゃよう、関七州やるでもな、ほんでこらえてくらーちょよ?」
「おらー喜んで関東行くまいだ」

てな会話があったのかどうか・・・・
徳川家康はあっさりと関東移封に同意して、
数ヶ月のちにはさっさと江戸に移ってきました。
その頃の江戸って、どんなだったのか想像できますか?

うーん・・・かなり難しいですね。
まず、今の皇居のあたりには、ほんの小さな城がありました。
多分、今の皇居の何百分の一という規模。
その小さな城は、後ろが海でした。
今の有楽町あたりから築地・八丁堀周辺までは
遠浅の海だったはずです。
多分、多少の漁民が住んでいたと思います。

家康がやってきて、最初の10年間はそのみすぼらしい「江戸城」を修復して
ちょっとずつ大きくしていったのでしょうね。
家康が江戸に移ってきて10年後、関が原の合戦が起こります。
これに勝って、家康は晴れて天下人となりました。
江戸は、天下人の本拠地となったワケです。

ここで、ひとつ不思議なことは、
なぜ家康は江戸を捨てなかったのでしょうね?
他にどこにでも行けたはずです。
例えば、名古屋。
江戸よりもずっと京都に近いし、何かと便利。
京にそのまま居座って、足利家みたいに
京の市中に壮麗な館を拵えてもよかったはず。

また、大坂の秀頼を追い出して、あの大坂城をそのまま使うのも有力な選択肢。
何と言っても、当時の経済の中心は京・大坂・堺です。
はたまた、駿府というのも考えられます。
家康が人質として少年期を過ごした場所ながら、
よほどのお気に入りであったらしく、75歳の生涯をこの地で閉じています。

その時、家康が江戸をほっぽり出していれば、
少なくとも今の「東京」はありません。

でも、家康は征夷大将軍を拝命したとき、江戸に幕府を定めたのです。
そして、「天下普請」とよばれる日本史上最大の土木建築工事を行いました。
カンタンにいえば、今の皇居(江戸城)を作ったのです。
日本中の大名小名がこの「天下普請」に狩り出されました。
江戸の町は、全国から集められた人夫・職人であふれ返りました。
これが、そもそもの江戸の町のはじまり。

大名屋敷は小高い台地を選んで築かれました。
今の千代田区・文京区・港区あたりです。
これが、後に「山の手」と呼ばれるエリアになります。
人夫・職人たちは低地に掘っ立て小屋でも立てたのでしょう。
神田から浅草あたりの低地が庶民の町になりました。
やがて、土地が足りなくなってどんどん東に広がります。
隅田川を越えたあたりも、元は低湿地であったのを深川八郎右衛門なるものが
家康に願い出て埋め立てたといわれています。
それが、今の江東区深川エリアです。

江戸の人口は幕府が開かれて数十年で100万人に達したそうです。
当時、世界一といっても過言ではないスケール。
でも、江戸期いっぱいを通じて、100万どまり。
明治維新で一度どひゃっと減って、そのあと増えに増えます。
それまで、人煙まばらだった城西エリアにも
どんどん市街地が広がっていきました。
新宿や渋谷は、明治も後半になってから発展します。

「土地が足りない!」
何と言っても100万だったのが、昭和初年で500万人近くまで膨張。
これじゃあ、土地も足りなくなります。
当時の建物は、住宅ならせいぜいが3階。
ほとんどは木造2階建てです。
で・・・どうするか?

ふと、東を見ると、そこには江戸前の海。
「あるじゃない・・・あそこを埋め立てようよ」
と、誰かがいったかどうかは知りません(笑)。
でも、そこには幕末に御殿山を削って作った「お台場」がありました。
「あれをもっと大きくすればいいじゃない」
なんて考えたのかもしれません。

それで、できたのが今の豊洲や有明、東雲に辰巳。
月島や勝どきは、割りあい早くに埋め立てられていました。
月島のお隣の佃なんて、江戸時代から「島」です。

ところが・・・東京の人口的な「膨張」は、1960年でストップ。
実はこの半世紀、東京都区部の人口はほとんど同じか、微減。


さらに、ここ30年の円高でダダッ広い土地が必要な第2次産業は、
ほとんどが海外に流出してしまいました。
一方、建築技術が進んで建物はどんどん高層化。
「足りない」と思っていた土地が、あまり出したのです。
特に、どんどこ埋め立てた東京湾に浮かぶ人工の島々はスカスカ。
晴海には今のところマンション建設の槌音が響いていますが、
新豊洲に有明、青海までいくと・・・人影さえ見かけなくなります。

「そういう所にこそ、廉価で良質な住宅を」
かつての都営辰巳団地のようなコンセプトで開発していただければ、
都民から拍手喝采を浴びたのでしょうが・・・・
現実は、真逆と言っていいでしょう。
ゴテゴテと厚化粧を施し、無機質な都市計画を実行。
シスコのWaterfrontみたいなイメージを目指したのでしょうか?

ミニバブル期には、内外のチャラチャラした
タレントを広告に起用したタワーマンションが、
山手線沿線と同レベルの値段をつけて売り出されました。
また、広告にタレントは起用しなかったけれど、
ミニバブルに浮かれて「販売停止! 半年後にもっと高く売ろう」などと
強欲なことをお考えになった事業主もいらっしゃいました。

そういったマンションがどうなったかって?
もちろん、今でも一生懸命「販売」活動を続けてらっしゃいますよ。
ひょっとしたら、そろそろバナナの叩き売り風の大バーゲンでも
お始めになるかもしれません。いや・・・一部はもう始まっていたりして(笑)。
詳しくは、最新情報に更新した私のレポートをご覧ください。
一挙に2題をリニューアルリリースしました。

榊淳司のマンションレポート001
ミニバブルの残影 豊洲タワーマンション市場
【2010年11月改訂版】 価格 3,980

豊洲も、残すはシティタワーの2物件3棟。
東雲・辰巳で「市場化」が始まっただけに、ますます苦しい展開。
来年3月に向けてどう動くのか、注目!

榊淳司のマンションレポート003
東京湾岸・有明エリア マンション市場に異常アリ
【2010年11月改訂版】 価格 3,960

タレント起用失敗を認めない名物部長Y氏。
ブラピにフラれ、マドンナにソデにされ、
桑田に逃げられたが、仮面ライダーも助けてくれなかった!


2010/11/1 20:09 Comments (0)

コメントはまだありません

No comments yet.

RSS feed for comments on this post. TrackBack URL


Leave a comment

※こちらへ書き込みいただいたコメントは、承認後全て表示されます。
マンション購入に関する個別相談等こちらへ表示させたくない場合は、
専用フォームからお願いいたします。